そのとき

未明からサイレンが鳴り響き、防災無線が「命を守る行動を」と避難を促していました。
私は5時から低いところのあるタンクから、少し高いタンクへ焼酎の原酒を移し替える作業をしていました。その作業も一区切りついた7時過ぎ、木戸を蹴破って津波のような水が蔵に押し寄せてきました。人吉の人は誰も経験したことのない水の勢い。球磨川の濁流は市の中心部から越水し、その少し下流の蔵から800Mのところの堤防を破壊して、住宅地に、そして我が蔵に襲いかかってきたのです。麹室の中に濁流が流れ込んでいくのを見ながらも、私は何もできないまま自宅2階へ避難しました。
それからみるみる水位は上昇。ガシャン!バリバリ!倒れた冷蔵庫が壁を突き破り、家具は窓を割ったようです。水は階段を一段、また一段と上がって来ます。踊り場を過ぎ2階に迫る勢い。命の危険を感じました。実際この時、同じ町内の方が4名亡くなられています。
10時頃水位は最も上昇しました。自宅ベランダから蔵の1階部分が完全に飲み込まれていく様子を呆然と眺めるしかありませんでした。敷地の奥の10KLタンクは道まで押し流され、所有するすべての車(家族のものを含めて7台)は屋根が完全に見えなくなるほど水没しました。
午後から水位は下がり始め、夕方には道を歩けるようになりました。一歩蔵に入って唖然としました。床は泥だらけ。タンクは浮き上がって横転、あるいは泥水をかぶって水没。浮き上がったタンクの勢いで屋根が持ち上げられて壊れていた。製造場での水位は梁の上までの3Mに達していたようです。明治以来の麹室を覆っていた断熱材の籾殻は泥水とともにそこらじゅうに撒き散らされていました。石で囲まれた麹室内部も全滅。蔵の個性を決める微生物が台無しになり、愛情込めて造った原酒の八割は流され、損害は計り知れず、言葉を失い、涙が込み上げてきました。
自宅も床上1.8Mの浸水で滅茶苦茶。何も考えられないまま避難所へ。翌日から、先の見えない長い長い復興への道を歩き始めなけらばなりませんでした。

それから

「片付けだけで三年かかる」「会社の再興なんてできるはずがない」と完全に諦めていました。しかし、翌日、十数件の球磨焼酎の蔵元仲間が集まって、自宅の泥まみれの家財道具をすべて運び出してくれました。ほんの少しだけ復興への光が見えた一日でした。
激しく降り続く雨、蒸し暑さの中、蔵の片づけはとても苦しいものでした。初めは、タンクや機械、資材などが散乱して足の踏み場もありません。泥が靴底にまとわりついて歩けない状態。そのような中、まず大きなタンクや機械を運び出し、泥をかき出しました。そして、ダメになった商品や資材を処分し、商品として提供できそうなボトルをボランティアの方に丁寧に洗っていただきました。
事務所では散乱した泥まみれの書類から必要なものを探し出し、そうでないものは片端から捨てました。書棚の本は泥水を吸って膨張し、取り出すのが非常に困難でした。醸造技術に関する本、焼酎の歴史に関する資料、人から頂いた大切な全集本などすべて捨てました。それは自分の脳みその一部のようなものでした。
復興への作業は、駆け付けてくれた友人知人、取引先などのボランティアの皆様の力添えがあったからこそ実行できました。のべ数百名になる人の力は素晴らしいものです。自分たちだけでは間違いなく心が折れていました。丁寧な激励のお手紙を送って頂いた方もいらっしゃいました。義援金をみんなに募って集め、届けていただいた方もいらっしゃいました。クラウドファンディングでは779人という予想以上に多くの皆さんからご支援をいただきました。
これらすべての皆様に5ヶ月間背中を押し続けていただきました。そのお陰で我々は前進し、今、ここに立つことができています。

これから

総ヒノキ造りの麹室が完成し、製造場も仮復旧ができました。瓶詰設備はほぼ復旧を終え、タンクにわずかに残って救われた焼酎の瓶詰め作業を進めることができます。

11月26日には仕込みを再開。大きな一歩を踏み出すことができました。

しかし、店舗、事務所、貯蔵設備、一部倉庫については、大まかな片付けはできたものの、床も壁もない手付かずの状態が続いています。復旧にはまだまだ時間がかかります。

完全復旧するその日まで、粘り強く頑張っていきます。

これから私たちがやるべきことは私たちを援助してくださった方への恩返し。それは、しっかり復興して、これまで以上の上質な焼酎を造り、経営的にも盤石な蔵となることだと考えます。
そのために、一つひとつ課題を乗り越えてまいります。